子供の叱り方。思いやりのあるいい子に育てるたった1つの言葉。
子育てって毎日が大変ですよね。お疲れさまです。子供の叱り方に悩んだら、これを読むのに7分ほどお時間をください。
叱られた実体験、覚えていますか?
ほとんどの親御さんは、日々の生活に手いっぱいで、叱り方を研究しつくす余裕はあまりないのではないでしょうか。
僕はあまり叱られない子でした。正直、いい子でしたからね。班長や委員長も担ったりしてました。
それでも、ひどく叱られたときの記憶がいくつかあります。
僕、コウヘイはこういう子どもでした
叱られる回数がさらに減ったのは勉強ができるようになってからです。成績は中の上から上の中。
たとえば、小学校では字の汚さ以外は最上評価。高校時代のある教科では、附属校全体で一桁台の順位の成績もとっていました。
思いやりのある行動としていえば、優先席などはもちろん、同じ塾の女の子の友達を家まで送っていったり、荷物の分担などがあれば皆の負担が減るように考えたり。
特に思い浮かべるものは、小学校の校外学習のとき。同じ班の子が故意ではなく、僕の課題を水たまりに落としてしまいました。字はにじみ、わら半紙もボロボロでしたが、僕は何よりも、それにショックを受けた彼女が泣きじゃくったことをなぐさめていました。
まぁ思春期の頃にはこの思いやりが裏目にでてしまって、疎まれたり、反感を買ったこともありましたけどね。
大人になって、子供時代の行動の関連性が分かったいま、この叱り方が僕の「思いやりあるいい子」のきっかけの大きな1つになっていると確信しています。
もちろん、この叱り方をされたからといって、お子さんが必ず「思いやりあるいい子」に育つとは言えません。その他の環境要因もあるでしょうからね。
でも、そのキッカケや要素にはなるんじゃないかと思います。
僕が経験してきた、この叱り方の効果はてきめんでした。
もし、これを狙って母が僕を叱っていたのであれば、それはすごいと思います。
または、これを知らずに母が僕を叱っていたのであれば、それもまたすごいと思います。
僕の家での両親の役割
この言い方でお分かりのように、母が主な教育役でした。
自営業なので、父もほぼ終日家にいました。父は一緒に遊ぶ役が多かったと覚えています。
叱られた回数があまり多くはないといっても、きっと色々な叱られ方をしたでしょう。
でも、この叱られ方が一番、記憶に残っているんです。その後、僕がどういう反応を返したのか、ということまでも。
後々にも書いていきますが、この叱り方は代表的なものの一つのようです。
31歳になって、ようやく「この真価が分かってきたな」と思えるその反応や効果を書いてみましょう。
この叱られ方をしたことでの僕への影響
ここで少し自慢話をしなければなりません。いや、そうさせてください。
この叱り方がいかに素晴らしいものだったかを納得していただくには、多少の自慢話が必要なのです。
僕は多くの場合において、リーダー役でした。皆をまとめたり先導する立場にいました。進んでやる人がいないから、というのが1つの理由です。でも、こうして気を配りやすい立場を無意識に選らんでいたのではないかな、とも思います。
例えば、その立場を利用して、ちょっとハブられていたような友人を皆の輪の中に引き入れようとしたりもしていました。
僕は恥ずかしがり屋の人見知りでしたが、困った状況にいる人がいると手を差し伸べたり、周りの大人に協力を仰いで解決してもらったりとしていました。決して、周りを無視できない性格でした。
僕は勉強にも積極的でした。苦手な教科ももちろんありましたが、平均点以下をとったことはほとんどありませんでした。
しかし、これ以上に自慢できると思うことは、今こうやって自分のことを理解できるようになったということです。
自分の人格形成にかかわった言葉がわかるというは、人生においての大きな転換点です。これができて、自分の人生に深見がでたのも「この叱り方があったからこそ」とも思えるんです。
この叱り方をした、母について
ちょっと恥ずかしいですけど、母について。
母は聖人ではありません。人並みに怒りますし、焦りもします。
母は育児に熱心でした。食について気を配るだけでなく、衣や住の環境、教育についても気を配っていました。
母は多忙でした。仕事はしていませんでしたが、僕らの世話の合間をぬって、あれこれと自分の趣味のこともやっていました。
母は僕のことを愛してくれています。僕の前に、水子となってしまった子が数人いたこともあり、僕の存在は他の親御さんたちと同様にかけがえのないものだと思います。勿論、弟も。
その叱り方をお伝えします
この一言は先にも触れたように、叱り方としては、よくある言葉です。
特別な準備や、必死に覚えて見極める必要もありません。
そして、その場だけで終わってしまうものではなく、お子さんの人格形成にかかわる一言だと、僕の経験上いえます。
その一言とは「もう知らない!」
そう。
この記事は逆説的な記事です。
ここまで期待して読まれた方、もし騙されたと思ったらごめんなさい。
それは謝ります。
でも、もうちょっと続けて読んでみてください。それを回避する提案もさせていただきます。
どんな状況で言われたのか
- 僕がこれを言われた記憶は、テスト勉強のときでした。
社会や理科といった暗記物が苦手な僕の勉強につきあってくれたときに、この一言で叱られました。
算数が得意な僕とは逆に、母はこうした暗記系が得意でした。それもあって、僕の覚えの悪さや教科への興味のなさが癇に障ったのでしょう。
- 僕がこれを言われた記憶は、ピアノの練習のときでした。
幼稚園から始めたピアノ。引っ越して先生が変わって、練習をする気が起きないときにこうして叱られました。それでも、こうして叱られて見放されたくないという気持ちも働いたのか、中学時代まで続けていましたけどね。
- 僕がこれを言われた記憶は、ゲームをしているときでした。
ゲームがとても好きだった僕に対して、母はゲームが大嫌いな人間です。中々やめられない僕に対して、こうして叱りました。僕としては、周りの友達に追いつくためだったり、やめられるポイントが見つからなかったりといった理由があったんです。
今だからこそ改めて思う、僕への影響
僕の思いやり部分は、きっとこの言葉によって「認められて欲しい」あるいは「母の理想像であるいい子」を演じるために出てきた部分だと思っています。
僕の勉強ができるようになった、その根っ子には「母に認められるため」に勉強をしたのかもしれません。
僕がリーダー的な立場にいたのは、母が認めている父がその友人・知人の中でまとめ役をしていたから、なのかもしれません。
子供にとっての母の存在
いま僕がパートナーのヨガ講師、カオンとやっている生徒さんも同じような問題をかかえていました。その生徒さんへのインタビューで、彼女はこう話していました。
やっぱり子どもってお母さんが大好きなんです。
喜んでほしい、褒めてほしい。いい子だと思われたい。
彼女が僕のような叱られ方をしたのかは分かりませんが、この会話をみていると僕と同じような境遇を感じます。
僕のこうした性格は、弟がいるから、その兄弟関係からだよ、ということを仰るかもしれません。
しかし、Webをあれこれ見ていると同様の意見が散見されます。
全人格を否定する言葉や子どもを突き放す言葉は、使ってはダメ
「生まれてこなければよかったのに」など全人格を否定する言葉や、「もう、知らない! 勝手にしなさい」、「出て行きなさい」など、子どもを突き放す言葉は子どもの心に深い傷となって残るので、絶対に使ってはいけません。
例えば、「もう勝手にしなさい!ママはもう知らないから!!」と言われたら、子供はどう思うでしょうか?
イヤイヤ期くらいの小さな子供にとっては、親は絶対的な存在であって、突き放されたら生きてはいけません。心に大きな不安や悲しみを与えてしまうことでしょう。
実体験から語る、元子供からいま大人の人へ
子どもの意見として知っておいて欲しいこと。
知らないって言われたら、もう何もできなくなっちゃうんです。
多分、僕は「出ていきなさい」は言われなかったけど、小学生ながらに明日一人で起きて朝ごはん作って学校に行けるかな、なんて布団の中で思い悩む夜もありました。
親の常識は子の常識ではないんですよね。
親子といっても、以心伝心できているわけではないんですよね。
親と子は別の人間なので、もっている考えも全然違うんですよね。
子供だったことのある、あなたならきっとわかると思います。
何故、親の思い通りにいっていないのか、ということを聞いて欲しいんです。少しでも。
全く理解できなくっても、少しでも理解しようとして欲しいのです。
子供を体感し、理解するための【大人のための実験】
先に挙げた、ヨガの生徒さんがお子さんの通っていた幼稚園で面白い体験をしたといってくれました。
手袋をはめて靴紐を結ぶという実験。
自分の手を思い通りに使える大人なら、さっさと結べますよね。
でも、手袋をしていたらどうですか?
子供の場合は、細かい動きまで、まだ完全に思い通りに動かせるわけではありません。本人としては完璧に動かしているつもりでも、大人と比べれば差はあります。
結び方を完璧に覚えているわけでもありません。指の動きが邪魔になって、前後の奥行がややこしいことになっているかもしれません。
そんな状況で「早く靴ひも結んで!」あるいは、「服を着て、ボタンはめて!」と言われても、できません。
ウソだと思ったら、手袋しながらやってみてください。
僕もやってみました。いや、これは無理だ、と思いました。
これを読まれたら、とりあえずやってみてください。
大切なことなので、二度書きました。
体の動きだけじゃなくて、考えも同じです
考え方や思考も同じです。
頭の中で手袋をはめているように、論理的にスッキリと考えられません。論理的になれるほどの経験も分析力もまだ足りていないんです。
もし「もう知らない!」と言いたくなったら
その時点で、感情的になってしまっていると思います。なので、頭を整理とか、深呼吸とか思い出せないかもしれません。
なので、この手袋の実験を思い出してください。
頭の中でも手袋をはめているのと同じと想像してみてください。
これを体でわかってもらいたいので、さっきの実験【手袋をしながら靴紐を結んだりボタンをはめたり】をしてみてください。
体で理解できたことは、頭で考えるよりも素早く、思考に上がるようになります。
ということは、分かってはいてもできない、ということが少しは回避できるようになります。
そして、ちょっとでもいいので、お子さんの気持ちを聞いてあげてください。
説得するのでもなく、強要するのでもなく、お子さんの考えをちょっとでも認めてあげて理解しようとして欲しいのです。
そしたら、僕のような恐怖ではなく、善意に基づく思いやりのある子に育つのではないかと思います。
もちろん、僕のこれはある程度解消されましたよ。でなければ、こうして書けませんからね。
解消方法が知りたい方は、パートナーのWeb kaonyoga.comを読んでいただけると、徐々にお分かりになってくると思います。
こうして、少しでも恐怖をいだく、自分の存在を否定したくなる人が減ったらいいな、と思います。
この記事の前半部分は、内容が重くなりそうと思い、読みやすい文にするために
下記書籍の例文を引用・改変させていただきました。